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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
SHINOBI(しのび)は日本のマスクマンのプロレスラー。鳥取県日野郡日南町出身。VAMOS、ルチャリブレ日本に所属。 デビュー戦 1994年7月メキシコ・ピスタ・レボルシオン、対エスペクトロ・ジュニア&モグール&ハビエル・クルス(パートナーはオーニタ・ジュニア&アギラ・ソリタリア)にてデビュー。 趣味 読書。 == 経歴 == 高校卒業後に実家である理容店を継ぐために大阪の理容学校に進学する。 しかしプロレスラーになる夢が断ち切れずに、理容学校卒業後のインターン中に理容師への道を捨て道路工事などのアルバイトでメキシコに渡るべく実費を稼ぎ、1993年に単身メキシコへ渡る。 1993年2月にエスペクトロ・ジュニア2号、弟のカダベル・デ・ウルトラトゥンバ(カオス・ジュニア)と出会い二人に師事する。 二人の師匠に徹底的にシゴかれルチャリブレの基礎を叩き込まれる。その練習のかいもあり、師匠にも認められCMLL所属選手として1994年7月にメキシコ・ピスタ・レボルシオン大会でプロデビュー。 1997年にはCMLL6人タッグチャンピオン決定トーナメントにツバサ、ウルトラマン・ジュニア(ウルトラマンの実子)と組んで出場やメキシコのG-1といわれるグランプリックストーナメント等のTVマッチにも出場。 1995年4月には右膝の靭帯損傷、更に同年の12月には右肘脱臼剥離骨折などの怪我に泣かされる。 しかしその間にIWAジャパンに待望の凱旋帰国も果たし、逆輸入ルチャドールとして日本のプロレスファンにもその存在をアピールした。 1997年にCMLLがCMLL JAPANの名で日本に初上陸し全国ツアーを行う。ここでブッキングや興行開催にあたって指揮を執ったのがこのSHINOBIであった。 1997年12月には後楽園ホールでアルカンヘル・デ・ラ・ムエルテの持つゲレーロ州ウェルター級王座に挑戦。見事に奪取して新王者となる。その後2回の防衛を経たが1999年6月にアルカンヘル・デ・ラ・ムエルテに取り返されてしまう。 1998年末に自分の地元である中国地方に密着したルチャリブレ団体で「村おこし、町おこし」を目指し旗揚げ準備のために日本へ完全帰国。 旗揚げまでの間にもIWA JAPANや華☆激等の様々な団体に出場する。 1999年7月25日に地元である鳥取県日野郡日南町の日南町社会体育館にて中国地方限定ルチャリブレ団体「VAMOS」を旗揚げ。会場は超満員となり大盛況を得る。 その後磁雷矢、SHIIBA、飛影等と共にメキシコで活動してきた日本人ルチャドールユニット「ルチャリブレ日本」を結成。 2000年2月、アルカンヘル・デ・ラ・ムエルテの持つCMLL世界ウェルター級王座に挑戦も奪取失敗。7月23日に全日本プロレス日本武道館大会にて全日本プロレス初参戦を果たした。その後も東京ドーム大会など定期的に全日本プロレスに参戦。 VAMOSの活動と平行して全日本プロレスや華☆激を中心としたの様々な団体に出場する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「SHINOBI (プロレスラー)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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